ドラマな日々 第12回
『知らねえよ』
少し前のことだが、「嫌われ松子の一生」という映画を観た。
監督・スタッフ・俳優それぞれの才気ほとばしる作品で、正直、笑ったらいいのか、泣いたらいいのか、感動したらいいのか。ただただ圧倒され、ポカンとして映画館を出た。でも、楽しかった。映画的興奮に満ちた作品だ。こんな映画を創った監督って、どんな人なのだろう。パンフレットを買って読んで、度胆を抜かれましたよ、私は。 だって、役者さんが真剣に役に取り組んで、必死に考えてきた質問に対して、監督は「知らねえよ」と、答えたと書いてあったのだ。「松子~」の監督は、脚本も担当している。演出の徹底ぶりから察しても、脚本だって綿密に書いているに違いない。なのに「知らねえよ」である。
映画やドラマを書くとき、脚本家は、数々の質問を受ける。脚本家の場合、俳優から直接ということはあまりないのだが、打ち合せの時に、プロデューサーや監督に、まるで国語の授業のように、「この登場人物のこの心情は?」とか「この台詞の言外の意味は?」とか「ここでこう行動するのは、どういう意味があるのか」等など、延々聞かれることがある。熱心なチームほどそれは多い。時には、5時間6時間。気が付くと夕方から始まって、夜明けまでなんてこともあったっけ。その時、監督たちを言葉で説得できない場合、私のような"か弱き"(ホントか?)脚本家は、書き直しをしなければならない。私は、基本的には、脚本に「正解」はないと思っているので、建設的な意見は取り入れ、彼らの納得いくように、自分の中で消化して書き直しをする。頑固の度がすぎて、一人よがりになってはいけないし、その方が作品の出来上がりが良くなると思えば、労はいとわない。それがプロの仕事ですしね。しかし、しかしである。時々打ち合せをしていて、辟易することがある。それは、単なる確認作業になっている時。「この人の気持ちは」「この感情は」「この行動は」心の中で、つぶやきたくなる「知らねえよ」と。だって、そのための脚本ではないか。しかし、そんなことなかなか言えるものではない。相手は大監督だったり、大プロデューサーだったりするわけですから。それを、主演俳優に公然と言ってのけてしまう「松子~」の監督に私は感動した。「知らねえよ」は、決して「知らない」のではなく、「知らなくてもいいよ。僕に任せてよ」という意味なのだから。その潔さと作品に対する責任感に、感銘を受けたわけである。もっとこの人のことを知りたくなり、主演の中谷美紀さんの書いた「嫌われ松子の一年」というエッセイも、読んでみた。すばらしい。監督と女優のバトルが、こんなに忌憚がなくっていいのだろうかという位、赤裸々に正直に綴られていて、それでいて読み物としても面白い。創作現場の狂気が伝わってくる。嗚呼。私もこんなに潔く人を拒否してみたいものだワ。等と思いながら。今日も脚本直しをする日々である。こう書いていて気付いた。10月から始まる「Dr.コトー診療所 2006」の裏番組は、「嫌われ松子の一生」であることに。でも、監督もキャストも映画版とはまったく違うようなので、テレビはぜひ「Dr.コトー」を見てくださいネ。
*2006年8月号掲載*