月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第39回

手紙 Ⅱ


 二六年前の夏、OLだった私が偶然見たNHK札幌制作のドキュメンタリー。それは、その年開塾したばかりの富良野塾一期生の生活を綴ったものだった。番組を見て、いてもたってもいられずNHK札幌に電話した私に、プロデューサーのS氏は言ってくれた。「富良野塾に入りたいなら、倉本先生に手紙を書きなさい。僕が先生に渡してあげますよ」と。尊敬する脚本家への初めての手紙。富良野塾に入りたい気持ちは、猛烈に湧き上がってはいたが、その思いをどう伝えたらいいのか─―。私は毎夜悶々と悩み、書いては破り書いては破り、一週間かけてようやく手紙を完成させた。真夜中に書いたラブレターほど恥ずかしいものはないというが、この手紙は、まさにそのもの。青臭さに自分でも赤面しつつも、エイヤと思い、投函した。

 しかし、夏が終わり秋が過ぎても、返事は来なかった。手紙は、本当に倉本先生の元に渡ったのだろうか。渡ったとしても、多忙な脚本家先生が、私の手紙など読んでくれるのだろうか。諦めかけていた十二月、富良野塾から一通の葉書が届いた。それは、富良野塾の二次試験の通知だった。私の書いた手紙が、一次試験の志望動機の作の代わりとなり、二次試験を受けられることになったのだ。NHKのS氏は、本当に手紙を渡してくれていたのだ!二次試験は、東京の会場での筆記と面接。面接では倉本先生を前に緊張のあまり思うような受け答えができず、もうダメだと、泣きながら家に帰った。
ところがその夜、倉本先生から直接電話があり、入塾が決定した。会社を辞め北海道に行くことについて両親を説得したのは、その後のことだ。
 そして、私は富良野の町から車で三〇分山奥へ入った布礼別(ふれべつ)の谷にある富良野塾で二年間を過ごすことになる。
役者と脚本家のための塾。自分たちの手でログハウスを建て、昼間は農家で働き生計を立てる。初めての共同生活、昼の作業が終わったあと深夜にまで及ぶ講義。塾の二年をひと言で表すことはできないが、私の人生観を変えた強烈な体験であったことは間違いない。
倉本先生には、創作の厳しさ楽しさ深さ、あらゆることを教えていただいた気がする。
あの二年がなければ、私は脚本家にはなれなかった。その富良野塾が、今年四月、閉塾となった。閉塾に先駆け、塾の創世期を描いた『谷は眠っていた』という芝居の全国ツアーが行われたのだが、その時、塾の後輩が、私の二五年前の手紙を探し出してきて、パンフレットに載せたいと言い出した。その手紙を今の私が読んだ感想を書いてほしいと言うのだ。「絶対イヤ! 恥ずかしい」と、何度も断ったが、後輩たちは意外としつこく、どうしてもと譲らない。放っておけば、そのうち諦めるだろうと、そのままにしていたら、ある日、私の元に長文の手紙が届いた。そこには、なぜ今、あの手紙を載せるべきなのか、原点を振り返るというテーマの塾最後の芝居に、創世期の塾生である私が、初心を振り返り何を思うか、そのことをどれだけ書いてほしいかが、切々と綴られていた。
 手紙には心を動かす力がある。私は、後輩の熱い思いに心動かされ、つい拙文をパンフレットに載せることを承諾してしまったのだった。

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