月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第38回

手紙Ⅰ


 「倉本聰! 北海道富良野に脚本家と役者の養成塾を開塾!」。その新聞記事を見たのは、二六年前の一九八四年冬。ラグビー観戦に行った国立競技場でのことだ。それも、自分が買ったのではなく、前に座っている人の読んでいたスポーツ新聞を盗み見したのだ。〝富良野にそんな塾ができるンだ。いいなあ。行ってみたいな〟と思った私は、その時、大学四年生。すでに就職も決まりOLとして働こうとしていた矢先のことだった。
 脚本家になりたいと思ったのは、一七歳の時のことだ。当時流行っていた『前略おふくろ様』というドラマに夢中になっていた私は、毎回、番組の冒頭にタイトルとともに出てくる「脚本 倉本聰」というテロップを見て、わが師匠の名を知った。そして、自分もテレビドラマを書いてみたい! と、無謀にも思ったのだった……。

 その後、大学の演劇学科に進み、8ミリ映画のサークルに入り、脚本を書く真似事をしたりもしてみた。映画もそのころ、むさぼるように観た。
だが、どこかでキチンと脚本を学んだわけでもなく、あっという間に四年は過ぎてしまった。遊んでばかりで、成績は最悪。そのくせ就職の段になってもまだ、「脚本家になりたい」などと、たわ言を言っている娘に激怒した父は、無理やり私を、証券会社へ縁故入社させた。
 スポーツ紙の見出しを見たのは、そんな時のことだ。しかし、時すでに遅し。私は、その春から、父の言いつけ(?)を守り、社会人として働きはじめた。 そして数カ月後、今度は電車の中で、前の人が読んでいた週刊誌の記事に目が留まった。それは、富良野塾に関する師匠の対談記事で、富良野塾が始まったことを知った。さらに数カ月後の夏。私は、偶然つけたテレビでNHK札幌制作のドキュメンタリーを見てしまう。それは、入塾したばかりの一期生たちの生活を映し出したものだった。

 二三歳。会社に大きな不満があったわけではなかった。社会人生活は、それなりに新鮮だったし、むしろOL生活を謳歌していた。スキー、テニス、旅行、飲み会等々。楽しい日々が過ぎていった。ただ、いつも心の中で思っていた。本当にこのままでいいのだろうか。このまま普通に仕事して、結婚して、普通の奥さんになって……。いや、それは違う。私の望んでいた人生ではないはずだ。なのに自分は何もせず、ただ流されているだけ。本当はやりたいことがあるはずなのに、何の努力もせずに、いや、どうすればその夢がかなうかもわからず、漫然と日々を過ごしている。私は、そんな自分が嫌だった。富良野の山奥の谷あいの地を自分たちで切り開き、ログハウスを建て、働きながら倉本先生の講義を受けている一期生の姿が、輝いて見えた。私も富良野で学びたい。心からそう思った。

 私は勇気を出し、NHK札幌に電話をかけた。富良野塾への応募方法を聞きたかったのだ。そんな大胆なことをしたのは初めてだった。その時、偶然、電話に出たのは、その番組のプロデューサーS氏。S氏は、富良野塾に入りたいという私の話を聞き、こう言ってくれた。「そういうことなら、倉本先生に手紙を書きなさい。僕が渡してあげますよ」と。(続く)


へ続く)

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