月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第40回

谷は眠っていた ①



 今春、私がシナリオを学んだ富良野塾が、二六年の歴史を閉じた。その閉塾式が、四月四日行われ、卒業生三七五名のうち二六○名が富良野に里帰りした。なんと卒業生の七割が、富良野に結集したのだ。その日は、羽田空港の出発ロビーからすでに同窓会状態。あちこちで再会を喜ぶ声が飛び交っていた。


 富良野塾は、北海道富良野市の市街地から車で三○分ほど山へ入った布礼別《ふれべつ》の谷合いにある、倉本聰先生主宰のシナリオライターと役者のための塾。期間は二年、授業料は無料。その代わり、農家で働き生計を立てる。住居も自分たちの手で丸太小屋を建てるところからスタートした。


 私はその二期生。先輩の一期生一二名とスタッフ二名は、農家の廃屋が一軒あっただけの草ぼうぼうの谷を、自分たちの手で切り拓き、たった一年の間に稽古場棟、宿舎棟、管理棟の三棟を建て、地下一階、地上二階建てのレストラン棟の基礎工事を済ませていた。丸太小屋といっても、直径三○センチ、長さ数メートルはあるカナダの丸太を使った本格的な建物である。二五年前の春、塾地に初めて足を踏み入れた時、まず驚いたのはそのことだった。こんな建物を自分たちで造ったの! 信じられなかった。


 塾の暮らしは過酷だった。夏場は、朝六時起床、七時には農協の車で農家へ運ばれ、農作業が始まる。玉ねぎの苗植え、人参の間引き、人参の収穫、大根抜き、八月に入ると選果場で人参の選別作業もやった。
夕方五時、農作業を終え、塾に戻り建築作業。そして夕食後、深夜にまで及ぶ倉本先生の授業。共同生活と労働と勉強。心も体もヘトヘトになりながら、それでも講義の面白さに、先生の言葉は一言も聞き漏らすまいと必死にノートを取った。二五歳。若かった――。まさに〝同じ釜の飯を食った〟同期はもちろんのこと、期は違えど同じような体験をしている塾生たちには、ほかにはない強い絆がある。


 閉塾式では、「谷は眠っていた」という、塾の創設期を倉本先生が描いた舞台の公演が行われた。全国ツアーの最後を、富良野に集まったOBの前で飾ろうというのだ。『谷は眠っていた』は、塾生たちの二年の暮らしをドキュメンタリータッチで描いた青春グラフィティーである。
これを見ると、塾生は皆〝パブロフの犬〟のように条件反射で泣いてしまう。夢を追いかけ、未来も何も見えぬ不安の中、やみくもに頑張り、喧嘩も恋もし、喜怒哀楽のすべてを体験したあのころのことを、思い出してしまうのだ。
 しかも、その主人公は、創設期から塾にいて、建築スタッフとして塾地を切り拓いた実在の人物、鬼塚氏(通称オニさん)。オニさんは、皆が卒業し富良野を去った後も、ひとり富良野を離れることなく、二六年間棟梁として建築を続けてきたた人だ。当然、全塾生が、オニさんの世話になっている。オニさんは、当年とって五一歳。しかし、その体形は、二六年前と全く変わらない。ほかの芝居に出ることはないが、この『谷は眠っていた』では、主人公をオニさん自らが演じている。
 その舞台が、OBの前で演じられるのだ。富良野の劇場の観客席は、始まる前から異様な熱気に包まれていた。そしてついに、最後の『谷は眠っていた』の幕は開いたのだった。(続く)

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