月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第37回

一〇〇歳まで!



 昨年末、静岡に住む九六歳の祖母が、誤って転倒し股関節を骨折し入院した。祖母は、長年一人暮らし。今でも身の回りのことは自分でやり、庭には野菜を植え日々手入れをする元気さだ。ここ数年は、耳も遠くなり腰も曲がってしまったが、頭はしごくしっかりしていた。その祖母の初めての大手術に、祖母の近所に住む叔母は、「一〇〇歳までと思っていたけれど、さすがのおばあちゃんも、もうダメかもしれない」と、電話口で弱々しい声を出した。
心配だったので、お正月、病院へ見舞いに行った。手術直後だし、ベッドに寝たきりだろうと思っていたら……病室はカラ。ほどなくして、看護師さんに押され、車椅子で祖母が現れた。祖母は、病室にいる私を見て驚き、一瞬ポカンとしたが、すぐに恥ずかしそうな顔で「のんちゃん(私のこと)……。失敗しちゃった」と笑った。

 さすがに体は衰弱した様子だったが、入れ替わりやって来る看護師さんたちにはあくまで愛想よく(叔母にはわがままを言うらしい)、「先生どうもスミマセン。お世話になります」などと言うので、皆、「すずさん(祖母の名前)、先生じゃありませんから」などと応えつつ、気持ちよく仕事をしてくれているようであった。だが、口は達者でも、自力では車椅子からベッドへも移れない。ベッドに移動する際、若いイケメンの男性看護師さんが、病室に現れた。体重三○キロ弱の祖母は、イケメンくんに〝お姫様抱っこ〟され、「はーい。すずさん、僕につかまってね」と、優しく抱き上げられた。すると、祖母はなんだかうっとりしたような顔で彼に抱かれ、両手を彼の顔へ差し伸べ、口をパクパクさせ、何か言いたそうにしている。「なあに? すずさん?」と、イケメンくんは、あくまで優しく祖母に顔を寄せる。「あのね。あのね……」。「ウン。なあに?」。二人の顔はキスシーンのごとく接近している! 祖母、何を言うのかと思いきや、イケメンくんの耳元に「この(・・)子(・)はね……脚本家なの。それでね、先だってNHKでマンシュ(満州)のドラマを書いてね」。イケメンくんはキョトンとしている。「それでね。この(・・)子(・)の父親と母親は早くに亡くなったから、私が代わりに長く生きなきゃいけないの。だからね、病院の食事も、全部頑張って食べるようにしてるの」。そう言うと、祖母はシワシワの顔でニッコリ微笑んだ。
 イケメンくんは「???」となりながらも、「そうなの、すずさん。それじゃあ頑張らなきゃね」と、祖母をベッドに寝かせ、〝この子〟と言われたアラフィフの私の顔を不思議そうに見て、「脚本家なんですか?」と言うと、「それじゃ失礼します」と、そそくさと出て行ってしまった。

 祖母は、話が通じなかったのが悔しかったのか、しぼり出すような声で言った。「のんちゃん。メモに。メモに。テレビの題名書いておいて。すぐに忘れちゃうっけ」
三年前に他界した父は、最期に私に「もうダメだ……」と力尽きたようにつぶやいた。
 人は最期を迎える時、そんな言葉が口をついて出るのだと思った記憶がある。が、祖母は、もうダメだなどとは、これっぽっちも思っていない。こうなったら、ぜひ一〇〇歳まで生きてほしい。というか、すずさんは必ず復活する気がしている。

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