月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第19回

北の漁師



 七月半ば、北海道道東部を車で旅してきた。釧路から知床半島を抜け、オホーツク沿岸へ至るこの旅は、二泊三日で総走行数九〇〇キロ以上。現在構想中の映画の舞台を探し、北の漁村を巡ったのだった。
 夏の北海道は緑に溢れ、一年でいちばん気持ちのいい季節だ。太平洋側の白糠(しらぬか)町、霧多布(きりたっぷ)岬、知床半島の羅臼、オホーツク海側の斜里町。それぞれ趣の違う漁港で、若き漁師から漁協の組合長まで、多様な海の男たちの話を聞いた。茶髪にくわえタバコ、ギンギラギンのサングラスをかけ、ちょっと見は怖いが話すと気のいい、絵に描いたような漁師のアンちゃんもいれば、冬場は裏山のゲレンデでスキーのインストラクターをしているという都会風の漁師もいた。
 わけあって本州から住み着き、三十歳過ぎて見習いを始めた人、青年団の団長をしている四十過ぎの寡黙な漁師(漁村では四十代までは青年らしい!)と、その父を尊敬し後を継ぐ高校生の若者もいた。ほんのわずかな時間でも、彼らと話をするだけで、垣間見える何かがある。それは理屈ではなく、皮膚感覚として感じるものだ。そんな感覚を大事にしたくて、最近は多少無理をしてでも取材をするようにしている。


 釧路に程近い霧多布は、その名のとおり霧の多い、幻想的な湿地の広がる土地だ。そこにあるH漁村も、昼だというのに霧に包まれていた。アポをとっていた漁協の組合長の家へ向かうと、組合長は、道に迷うと困るからと、家の近くの道まで出て待っていてくれた。地元の漁師たちを束ねている人物と聞き、私は頭の中で〝ガッツ石松〟を想像していたのだが、ニコニコ手を振っていたのは小柄で優しそうな老紳士であった。
 「あそこが家だから」と指差した霧の向こうに立つ家は、漁師の家というよりモダンなペンションのようだ。お宅に上がらせてもらい、地元で採れた昆布の煮つけをお茶請けに、二時間以上お話を聞いただろうか。
 太平洋側の漁港は、知床ブランドを持つオホーツク側に比べかなり厳しい状況にあるという。海外ものの安価な魚の輸入増加に加え、昨今の原油の高騰。折しもその日は、原油高騰に対して全国の漁師が一斉ストライキを行った日であった。「大変なことですね」と私が言うと、「なんもだ」と組合長。こんなものは、本物の厳しさではないというのだ。「厳しい、厳しい、と若いモンは言うが、借金して船の設備に金かけて、いい車を何台も持って、いい家建てて(組合長の家も、息子さんが建てた)、こんな贅沢な暮らしをしとる。一見豊かなようだが、中身はスッカラカンだ。それでいて油が高い、苦しい、と騒いどるが、こんないい時代に何を言ってるのかと思うよ。騒ぐくらいなら少し昔の暮らしに戻せばいい。知恵使って、船の設備減らして、人の力で工夫すればいい。今の原油高なんか、ホントの苦しさではないのサ」

 開拓民として北海道に入り漁師を始めて五十年余り。厳しい北の海で、おそらく大変な苦労を重ねられたのであろう。声を荒げるわけでもなく淡々と語る組合長の言葉に、私は打たれた。漁村の若手たちの暮らしは、そのまま都会の生活にも通じる。エコだ、環境問題だ、と大げさに騒ぐ前に、身の回りの贅沢を見直すことが、本当はいちばん大事なことかもしれない。



LinkIconLinkIcon