月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第11回


 昨年一一月、半年にわたり書き続けた連ドラ『ハタチの恋人』を脱稿した。五月半ば(執筆の始まる半月前)、シナハン(※)で大阪出張中の私の携帯に、父から電話が入り、体調が悪いので検査入院すると知らされる。その一カ月前まで、周りの人が「その年(七二歳)で、そんなに元気で大丈夫?」と心配するくらい父は元気で、お酒もガンガン飲み、ゴルフにも毎週のように行っていた。が、ある日突然、咳が出はじめ、あまりに苦しいので検査をしたところ、「小細胞肺がん」というたちの悪いガンであることが発覚してしまう。
 『ハタチの恋人』執筆開始とともに、父の闘病生活が始まった。母が他界し、父は一人暮らし。治療方法は? 入院先は? 身の回りのことは? 刻々と変わる父の病状とともに悩むことが山積みの毎日の中、コメディを書かねばならないのは、正直しんどい作業だった。
 七月に入り、東京の大学病院での抗がん剤治療の合間、私が仕事用に軽井沢に借りていた別荘で一緒に過ごすことを決め、十数年ぶりに父との暮らしが始まる。父も軽井沢の自然が気に入ったし、愉快なオーナー夫妻や軽井沢の友人たちのおかげで、重篤な病気でありながら、時にはそのことを忘れてしまうくらい楽しい日々を過ごせた。ところが、その生活もつかの間の八月上旬、父の病状は突如悪化。抗がん剤の効果が思うように現れず、急激にガンが進行し肝臓に転移してしまう。
 見る見るうちにやせ細る姿と苦しそうな様子に、ただ事ではない予感がして、大学病院の主治医にSOSを出すと、すぐに入院させなさいとのこと。大慌てで、お盆の真っ只中、東京の病院へ
 主治医は『Dr.コトー診療所』の監修をしていただいた先生で、最善の治療を本当に親身になり施してくださったが、それでも、日に日に父の体はがん細胞に侵食され、緊急入院からわずか一〇日間で、帰らぬ人となった。発病から三カ月。あまりにもあっけなく、父は逝ってしまった。

 母の死も急だった。七年前の冬の晩、母は突然頭が痛いと言って倒れ、救急車で運ばれた病院で、そのまま目を覚ますことなく亡くなった。人の命は、かくもはかないものなのか。昨日まで元気でニコニコとしていた人が、突如、目の前から消えてしまう。母の死を前にして、私はただ呆然とするばかりだった。そして、この時初めて、死は決して非日常の特別な出来事ではなく、ごく普通の生活の中に、生と隣り合わせにあるものなのだと実感した。
 それまで私は、ドラマの中で人の死を書くのが嫌だった。しかし、人を描く限り、避けてはいけないことではないかと思いはじめる。それが、『Dr.コトー診療所』や『涙そうそう』のテーマにつながっていった。

 そして今、両親を亡くし、私は人生をリセットされたような気分である。言いかえれば、今年は、新たな始まりの年なのかもしれない。怒濤の一年が終わり、そんなことを思う日々である。


(*注記)
※シナハン:シナリオハンティングの略。脚本準備のためにドラマの舞台となる場所へ取材に行くこと。

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