ことばのココロ 第30回
伯母の言葉
台詞を書くときに、気をつけていることがいくつかある。説明的になりすぎないこと、直接的になりすぎないこと、理性的になりすぎないこと。市井の人たちが発する自然な言葉を、いかにさりげなく登場人物に言わせるか。そこが脚本の勝負どころだと思っている。
台詞は、登場人物になりきり集中していると、突然ふっと降りてくる。その断片をうまくつかまえられた時、心に残る台詞が書けるような気がする。また、周囲の人の言葉に耳を傾けていると、時として素晴らしい言葉に出会うことがある。それをそっと心の中にインプットしておき、使わせてもらうこともある。
私には、甲府に住む伯母がいる。伯母は、母の長兄のお嫁さんだ。六人きょうだいの末っ子の母は、生まれてすぐに実母を亡くしているのだが、その母が一二歳のころ、伯母は伯父のところにお嫁に来た。以来、長男の嫁として皆の母親代わりとなり実家を切り盛りしてきた。
伯母夫妻には、子どもがいなかった。私は、四歳まで両親と母の実家の近くに住んでいたので、伯父伯母にはものすごく可愛がってもらった。
末っ子でちゃっかりモノの母は、年中実家に入り浸っていた。もともと母の家は、人の出入りが多い大家族。ある時期から伯母は、家でお菓子屋を始めたのだが、店に一番近い茶の間にはいつも色んな人がいて、ふと気付くと、知らない人がごはんを食べているなんてこともざらだった。
映画『男はつらいよ』の寅さんの実家の団子屋を見ていると、いつも甲府の家を思い出す。おいちゃんにおばちゃん、隣に住む次男一家の伯父の頭は禿げていてまるでタコ社長みたいだった。
私が幼稚園の年長に上がった年、父の転勤で甲府を離れることになった。伯父伯母は、本当に淋しかったらしく、赴任先の福島まで甲府から夜行列車に乗り、一昼夜かけて何の連絡もなしに突然現れたこともあった。
福島に転勤してからも、学校が休みになると、必ず母は私と弟を連れて甲府へ帰り、夏休みなど一カ月近くは実家にいた。
甲府の家は、子どもは一〇時と三時に店の好きなお菓子を食べてよく、休みには、いとこたちも集まり、富士急ハイランドやら富士山やら、いろいろな所へ遊びに行った。伯母は人が何人泊まろうと、嫌な顔ひとつせず、せっせと皆のごはんを作ってくれた。
朝起きると、伯母が台所で大きな鍋にお湯を沸かし、かつお節を削るいい匂いがした。伯母は、働き者でユーモアがあり、時々、伯父を叱り飛ばしたりする気丈なところもあった。本当に賑やかな家だった。
一〇年前にタコ社長が亡くなり、続いて私の母が亡くなった。すぐ後に伯父、そして父も逝った。あんなに大勢の人が出入りした家に、今、八〇を過ぎた伯母は、ひとりで暮している。
一年に一度は、私も顔を出すようにしているのだが、その時伯母は、必ず私の子どものころの同じ話をする。そして言うのだ。「あのころが一番よかった。みんながこの家に年中遊びに来てたころが。あのころが一番楽しかった」と。
この春放送になったNHKドラマ『遥かなる絆』の最終回、残留孤児だった主人公が十数年ぶりに中国の養母に会いに行くのだが、その時の養母の台詞にその言葉を使わせてもらった。血のつながらない伯母と私の関係が、どこか主人公とシンクロしたからである。