月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第35回

「いただきます」 




 昨年、軽井沢で嫌な話を聞いてしまった。別荘族の中に、夏の間だけペットとして犬や猫を飼い、夏が過ぎると、そのまま置き去りにして自宅へ帰ってしまう人が、大勢いるというのだ。その犬猫の数、ひと夏で百匹以上。捨てられたペットは、むろん保健所送りとなる。テレビで、保健所のガス室へ送られる動物たちの映像を見たことがある。檻に入れられた犬猫が、鉄の扉の向こうのガス室へ次々と葬られていく。彼らは、自分の運命を察しているのか、その目は一様に哀しげで、とても直視できなかった。あれは、動物のアウシュビッツだ。軽井沢のみならず、日本全国で、飼い主の都合でガス室送りになるペットは、年間三○万頭(!)に及ぶという。この数字を聞いた時、人間のエゴがここまできたのかと心がざわついた。
 自分が犬を飼いはじめて、なおさら生き物の命のことを考えるようになった。
縁あって預かった命だ。無責任なことはできないと強く思う。犬を家の中で飼うこと自体、自然の摂理からは外れた行為だ。せめて、天寿を全うさせてやるのが、飼い主の務めではないだろうか。

 食事の際の「いただきます」という言葉の意味を深く考えたのは、恥ずかしながら、数年前のことである。私が脚本を学んだ富良野塾の芝居に、『屋根』という作品がある。『屋根』は、北海道富良野の森に開拓民として入った若き夫婦の、大正から平成までの家族の歴史を描いた物語だ。
 昭和の初め、夫婦は一〇人の子どもに恵まれ、貧しいが幸せな日々を送っていた。その森には、彼らより先に熊が住んでいた。中でもフミコと呼ばれる〝時々ものすごい屁をこく〟凶暴なメス熊がおり、皆に怖がられていた。やがて、太平洋戦争が勃発。大事に育てた息子たちは次々徴兵され、食糧も尽きたある日、父がどこからか肉を手に入れてくる。それは、村人が鉄砲で仕留めたフミコの肉だった。家族は、フミコの肉を分け合い、夜中にこっそり食べることにする。その時、母親がフミコに手を合わせ、言うのだ。「そうですか、とうとうフミコ、こんな姿になっちゃったンですか」「フミコ、ごめんね。頂戴するわよ」と。
 その時初めて私は、「いただきます」には、殺生した生き物の命をいただくという意味もあるのではと気付き、はっとした。それまで、「いただきます」は、食事を作ってくれた人に対する感謝の言葉だとしか思っていなかった。子どものころ、私の家では、そういう使い方をしていたからだ。「いただきま~す」と言うと、母が台所で「はーい」と応え、食べはじめる。それが、わが家の日常だった。しかし、考えてみれば、食べるという行為は、他の生き物に命を分けてもらい、自分が生きながらえることだ。だから、殺生した生き物に感謝の意を込め、手を合わせるのも道理である。命というのは、それだけ尊いものなのだから。

 「『いただきます』には、命をいただくっていうもうひとつの意味もあるのよ、お母さん!」と、私はその時すぐに母に話したかったが、その芝居の上演直前に母は亡くなった。母の名は文子《ふみこ》という。「熊のフミコだって!」と、一緒に笑いたかったが、それもかなわず、仕方なく棺《ひつぎ》の中に『屋根』の台本を入れ、母を見送った記憶がある。

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