月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第34回

「美味しいお店ない?」②

 結婚式の披露宴で「高砂や~」と謡われる能の謡曲『高砂』の発祥地、兵庫県高砂市。そこに、義父の生家で肥料問屋だった江戸時代の建物が今も残っている。今は誰も住んでいないその家を将来どうするか。一度皆で見に行こうと、二〇〇八年暮れ、私たち夫婦と義父母は、高砂を訪ねることにした。

 出発直前になり、ふと富良野塾の後輩J子のことを思い出した。OB名簿に書かれた「兵庫県高砂市阿弥陀町《あみだちょう》阿弥陀《あみだ》」というインパクトある住所。彼女はそこに住んでいるはずだ。私はすぐにJ子に電話し、「そのあたりでどこか美味しいお店ない? 一緒にごはんでも食べようよ」と誘った。「わかりました! 探しておきます。で、何がいいですかね?」と言ったJ子の声は、少々不安げだった。「海の近くだから美味しい魚っ!」。間髪を容《い》れず私は答えた。旅の楽しみのひとつは食だ。せっかく行った旅先の夕食がまずかったら、悲劇である。食べ物のことになると、がぜん貪欲になる私は、「頼んだよ」と念を押し、電話を切った。

 さて当日、私たちは、山陽電車の高砂駅に降り立った。駅前は、地方都市の常か、シャッター商店街が続き、閑散としていた。が、それゆえどこか懐かしい昭和の風情を残すその町には、今も木造の銭湯が建ち、老舗の焼き穴子屋が、美味しそうな匂いの煙を漂わせていた。
 シャッターの下りたアーケード街を抜けると、そこだけ江戸時代と見まがう瓦屋根の木造家屋が続く一角がある。その一番端に義父の生家は建っている。
J子とは、その家で落ち合う約束になっていた。家に着くと、何やら怪しげなスーツ姿の男が数人、玄関前をウロウロしていた。問いただすと、なんと高砂市の観光協会の会長と役場の人たちであった。間もなく、J子がお母さんと共にやって来た。続いて地元の藍染め協会の人、近所の人、J子の親戚、挙げ句は神戸新聞の記者まで。来るわ来るわ、あっという間に家の前は人でいっぱいになってしまった
 実は、彼らを集めてくれたのはJ子のママだった。私の電話を受けたはいいが、美味しい店を探す自信がなかったJ子は、何かと顔の広いママに相談したらしい。ママは、我々の高砂訪問の趣旨を知るや、即座に各方面に連絡を取り、高砂の家の保存の話ができるようセッティングしてくれたのだ(恐るべきママのパワーである)。
 そして、その時初めて私たちは、高砂の家の付近が保存地区となっており、市をあげて古い建物を残そうとしていることを知った。そればかりか、義父も知らないうちに、高砂の家は市の観光マップに写真入りで「H邸」と紹介されていた(!)。が、皆それぞれの立場で、高砂の家に興味を持ってくださり、あれよあれよという間に、保存に向け動き出すことになった。そして、それがきっかけで、万灯祭で家を開放することになったのだ。二十年人の住んでいなかった家は、夜の闇の中、美しくライトアップされ、二日間で延べ四百人が訪れたという。

 私のひょんな一言から、高砂の家は、一気に活気を帯びてしまった。市の協力があるとはいえ、保存は予想以上に大変そうだ。だが、日本の文化であり財産でもあるこの家を、少しでも良い形で残せたら……。と、貪欲な嫁は心ひそかに思うのである。

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