月刊日本語(現 日本語教育ジャーナル)にて2007年4月号~2010年6月号まで連載

ことばのココロ 第33回

「美味《おい》しいお店ない?」①


 九月末、兵庫県高砂《たかさご》市の「万灯祭」というイベントへ行ってきた。高砂市は兵庫県南部播磨平野の東部に位置し、東に加古川、南に播磨灘を臨み、古くから舟運を利用した商売の町として栄えた場所だ。
その町に夫の父の生家で、江戸時代から昭和初期まで続いた肥料問屋の建物(推定築一八〇年)が、残っており、その家をお祭りの間、開放することになったからだ。

 万灯祭は、高砂に残る古い町並みを皆に知ってもらおうと始まった市民手づくりのお祭りである。夕暮れ時になると町中に置かれた無数のろうそくに火が灯《とも》り、神社やお寺、義父の生家のような家や蔵などがライトアップされる。さらに、各所でジャズライブが行われ、祭りの間、町はろうそくの灯と音楽で埋め尽くされるという、なんともお洒落なお祭りなのである。

 私が初めて高砂に行ったのは、結婚した年だった。同じ年に夫の祖母が亡くなり、法事でおばあちゃんが一人暮らししていた家を訪れた。初めてその家を見た時は驚いた。京都の町屋風のその家には窓に格子があり、玄関を入ると、左手に帳場、奥に仏間と座敷、廊下を挟んで中庭があり、その奥に土蔵が建っていた。座敷の横には、大きな梁《はり》のある土間があり、古い井戸やかまどが残っていた。「すごいすごい。時代劇みたいですね!」と、物珍しさに声を上げる私を、夫も夫の両親もキョトンとした顔で見ていた。あとで夫に聞いたら、子どものころから年中来ていたから、古いとは思っていたが、それが当たり前で、特に驚くようなものではなかったのだそうだ。

 それから一九年。私たちは、法事に数回行ったきり、高砂の家を訪ねることはなかった。東京に住む義父母は、年に数回お墓参りや庭の草むしりなどに帰っていたようだが、その家は誰も住むことのないまま、そのままになっていた。「あの家を、お義父《とう》さんはどうしたいのだろう」。そうふと思ったのは、私の父が急逝した一昨年のことである。それまで元気でピンピンしていた父は、がんが見つかり、たった三カ月で逝ってしまった。あまりに急なことすぎて、東京の家や田舎の生家をどうしたいのか聞くこともできなかった。元気なうちに希望を聞いておけばよかったと、その時しみじみと思ったのだ。
 そのことを夫に話すと、なるほどと同意してくれた。そこで二人でお義父さんに聞いてみた。「お父さん、高砂の家を将来どうしたいの?」「ううむ……」と、しばし唸《うな》った後、義父は言った。「お前たちの好きにすればいい」。そして続けた。「思い出のつまったあの家は、オレと一緒に朽ち果ててくれれば、それがいちばんいい」「それでいいのか、お義父さん! それは、あまりにもったいなさすぎないか!」私は心の中で叫んだ。いや、それと同じようなことを言ってしまったようにも思う。とにかく一度みんなで、高砂の家がどうなっているか見に行こう! ということで、神戸ルミナリエ見物も兼ね、一昨年の末、義父母と私たち夫婦は、高砂の家に行くことになった。
 どうせ行くなら美味しいものでも食べたいと思った私は、富良野塾の後輩が高砂に住んでいることを思い出し、電話をかけた。「そのあたりでどこか美味しいお店ない?」その一言が、高砂の家の運命を変えたのだった。 (続く)

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